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2012年11月06日

黒田 官兵衛 4

黒田 官兵衛が有岡城に行ったとき、

はたして村重は官兵衛に会ったのだろうか。

それとも、会わないで、官兵衛を土牢に入れたのだろうか

・・・というのが、少し興味のある問題ですね。

村重の心は・・・どうしても、信長に反旗を

翻さなければならないといった緊迫な思いは、

薄かったのではないか・・・という気がします。

その証拠に、思いのほかの、信長の寛大な勧誘に、

いったんその誘いを受けて、城を出るのですが、

すぐその後に、思いなおして籠城を決め込むのです。

このときの村重の気持ちは・・・やはり信長の知遇は厚かったけど

・・・でも、今さら降伏しても、あの峻烈な信長が、

本気で自分を許そうとは思えない

といった気持ちだったのではないでしょうか。

・・・とすれば、村重は、旧情厚い官兵衛と会談すれば、

もろくも自分が崩れ去っていくのではないか

という心配があったにちがいありません。

だから、会わずに土牢に入れたのではないかという気がします。

ただ、本当はどうだったのか・・・

今度、文献を調べてみたいと思います。

とにかく・・・こういった場合、

村重が心底から信長に反乱するとすれば、

官兵衛を殺すことを選ぶはずです。

それを殺さないで、土牢にいれるのですから・・・

このあたりの村重の行動に優柔不断さを感じさせます。

信長は、官兵衛の報告を一日千秋の思いで待っています。

しかし、なかなか秀吉からの報告が届きません。

ついに、信長は本来の性癖を爆発させて、

「はかられたか」というと同時に、

「官兵衛の子供を殺せ」と命じたのです。

黒田官兵衛は、信長に随身するにあたり、

息子の松千代を、人質として秀吉に差し出していたのです。

こともあろうに、この子供を殺せと命じたのです。

今までじっと、本来の自分を殺して、

ひたすらに事体の好転を願ってきた信長としては、

その忍耐の糸がピンと切れた瞬間だったのです。



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Posted by 剛先生 at 23:35│Comments(0)時代をみる目
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