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2012年11月04日

黒田 官兵衛 2

黒田 官兵衛はもともとは、小寺氏に属し、

姫路を拠点にしていました。

当時、播州は、毛利、浮田、織田などの勢力の接点にあって、

自己の存続を図るには、

右顧左眄に忙しい日々だったのです。

その中で、官兵衛は、

次の時代が、間違いなく信長の時代であるという確信

をつかんだのだと思います。

彼は主君の小寺氏を説得して、

信長と接触しようとします。

その際、秀吉と親交を結ぶことになったのだと思います。

本格的に秀吉が播磨に進出するまでは、

敵、毛利などの攻撃を受け、

それをわずかの兵で持って打ち破っています。

まさに寡兵よく敵を制すといった戦いだったのです。

おそらく、周囲には「ここまでして、

織田に尽くす必要があるのか」と

いった意見も多かったのではないでしょうか。

しかし、そのような中で、彼は一度もこころ変わりの様相もなく、

ひたすら信長に忠誠を尽くすのです。

ようやくにして、秀吉が姫路に着陣し、

本格的に中国経営が途につたばかりのころ、

摂津の荒木村重が信長に反旗を翻すのです。

摂津と言えば、信長の領土の中心的な位置にあり、

もし、この乱が拡大すれば、

信長の領国は分裂し、

瞬間にして瓦解する危険があったのです。

しかも、信長は荒木村重をことのほか、

信頼していて、このもっとも重大な地域を与えていたのでした。

だから、「村重、反乱」という知らせを聞いたとき

「何かの間違いであろう」といったといわれています。




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Posted by 剛先生 at 14:30│Comments(1)時代をみる目
この記事へのコメント
※注釈、始めました。

右顧左眄(うこさべん)→人の思惑など周囲の様子を窺ってばかりいて決断をためらうこと。

瓦解(がかい)→一部の崩れから全体が崩れること。
Posted by 上 at 2012年11月10日 21:44
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