2012年09月24日
鳥居 強右衛門 ⑩ 最終回
長篠の戦いの勝利で、織田軍、徳川軍は
大きく天下取の駒を進めたと言ってもよいでしょう。
また、この戦いで、奥平信昌は、徳川家康の娘を嫁とし、
信長から信の一字を与えられたのでした。
そして、この勝因を作った強右衛門を、奥平氏は
長く記憶にとどめるために、奥平神社にその姿を
掲げてきたのでした。私が昔見たのは、鳥居強右衛門
の最後の姿だったのです。
彼の絵姿は、今、中津城の天守閣の中に飾られています。
完
大きく天下取の駒を進めたと言ってもよいでしょう。
また、この戦いで、奥平信昌は、徳川家康の娘を嫁とし、
信長から信の一字を与えられたのでした。
そして、この勝因を作った強右衛門を、奥平氏は
長く記憶にとどめるために、奥平神社にその姿を
掲げてきたのでした。私が昔見たのは、鳥居強右衛門
の最後の姿だったのです。
彼の絵姿は、今、中津城の天守閣の中に飾られています。
完
2012年09月24日
鳥居 強右衛門 ⑨
強右衛門が武田軍に殺される姿を城から見ていた、
長篠城の兵たちは、彼の姿と最後の言葉に、
勇気付けられて、信長、家康の軍が
到着するまで、城は持ちこたえたのでした。
そして、援軍は、約束どおりにやってきました。
特に、織田軍は3000挺の火縄銃を持って到着しました。
織田信長は鉄砲を3段にして、弾積めの時間を短縮し、
しかも、鉄砲の前に柵をして、騎馬の突進を阻みました。
これによって、当時、最強と言われた、武田軍団は
圧倒的な織田軍の鉄砲隊の前に壊滅的な敗戦を帰した
のでした。 つづく
長篠城の兵たちは、彼の姿と最後の言葉に、
勇気付けられて、信長、家康の軍が
到着するまで、城は持ちこたえたのでした。
そして、援軍は、約束どおりにやってきました。
特に、織田軍は3000挺の火縄銃を持って到着しました。
織田信長は鉄砲を3段にして、弾積めの時間を短縮し、
しかも、鉄砲の前に柵をして、騎馬の突進を阻みました。
これによって、当時、最強と言われた、武田軍団は
圧倒的な織田軍の鉄砲隊の前に壊滅的な敗戦を帰した
のでした。 つづく
2012年09月23日
鳥居 強右衛門 ⑧
磔の柱に縛り付けられた強右衛門は
しばらくすると、やおら目を見開いて、
城の方を見ました。
遠目に仲間の顔が見えます。
彼はその一人一人の顔を確かめると、
目の前の城に向かって大声で叫びました。
「みなの衆――。援軍はすぐにやって
きますぞ。今しばらく持ちこたえてくだされ」と。
その言葉が終るか終らないうちに、彼の体は
下から突き出した武田兵の槍の先で刺されて
いました。
捕らえられた時から、強右衛門は死を覚悟して
いたのでした。
武田軍の命令に従うと見せて、これを、味方
をはげます最後のチャンスとして、この朗報を
命をかけて伝えたのです。
つづく
しばらくすると、やおら目を見開いて、
城の方を見ました。
遠目に仲間の顔が見えます。
彼はその一人一人の顔を確かめると、
目の前の城に向かって大声で叫びました。
「みなの衆――。援軍はすぐにやって
きますぞ。今しばらく持ちこたえてくだされ」と。
その言葉が終るか終らないうちに、彼の体は
下から突き出した武田兵の槍の先で刺されて
いました。
捕らえられた時から、強右衛門は死を覚悟して
いたのでした。
武田軍の命令に従うと見せて、これを、味方
をはげます最後のチャンスとして、この朗報を
命をかけて伝えたのです。
つづく
2012年09月21日
鳥居 強右衛門 ⑦
武田軍は、川をはさんだ対岸の、城からよく見える
場所にやぐらを建てて、そこに柱に磔(はりつけ)
にされた強右衛門を立てました。
城の中からも、裸で磔にされた強右衛門の姿が
よく見えました。長い籠城で、やせて、気力も
失せた城兵たちは、食い入るように、強右衛門の
姿を見守っていました。彼が捕まってしまったの
を見て、城兵の中に、絶望的な気持ちが広がって
いました。
両軍が固唾を呑んで見守る中、柱の上で、
強右衛門は、固く目を閉じていました。
それを、下から、武田の兵が槍の先で、
早く言えと催促するように、つつきました。
つづく
2012年09月20日
鳥居 強右衛門 ⑥
岡崎城から、援軍が来るとの知らせを、一刻も
早く知らせようと、長篠城に向かった強右衛門
でしたが、後一歩のところで、武田軍に捕まって
しまいます。
武田軍は、強右衛門から、徳川、織田軍がすぐ
にもやって来ると聞き出します。
そして、彼に、もし「援軍は来ない、降伏しろ」
と城内の兵士に伝えれば、武田の家臣として、
厚遇しようと持ちかけます。援軍が来ないと
なれば、城はすぐにも落ちるであろうと、
武田軍は考えたのでした。強右衛門の脳裏に
一瞬、貧しい家族の姿が目に浮かびました。
長い戦乱の中、満足に食べさせることも
できないまま、今、自分は殺されるかも
しれないという想いが頭をよぎりました。
彼は深い目をして、武田軍の指図どおりに
言うと承知しました。
つづく
早く知らせようと、長篠城に向かった強右衛門
でしたが、後一歩のところで、武田軍に捕まって
しまいます。
武田軍は、強右衛門から、徳川、織田軍がすぐ
にもやって来ると聞き出します。
そして、彼に、もし「援軍は来ない、降伏しろ」
と城内の兵士に伝えれば、武田の家臣として、
厚遇しようと持ちかけます。援軍が来ないと
なれば、城はすぐにも落ちるであろうと、
武田軍は考えたのでした。強右衛門の脳裏に
一瞬、貧しい家族の姿が目に浮かびました。
長い戦乱の中、満足に食べさせることも
できないまま、今、自分は殺されるかも
しれないという想いが頭をよぎりました。
彼は深い目をして、武田軍の指図どおりに
言うと承知しました。
つづく
2012年09月20日
鳥居 強右衛門 ⑤
家康に休むようにとねぎらいの言葉かけて
もらったのですが、強右衛門は「城では、
みなが私の首尾を待ちかねております。
御味方が明日にも出立することを知らせ
とうございます」といって、深々と頭を下げました。
家康は「もしこのまま返せば、武田方に
つかまったりもするだろうし、命も保障
しかねるかも知れぬ」と思いましたが、強右衛門
の決意を見ると、これ以上止めても無駄
であろうと思い直して、「では、くれぐれ
も気をつけるように」と諭して、強右衛門
を出立を見送ったのでした。
徳川、織田軍は、翌日には予定どうりに、
長篠城に向けて出立と決まりました。
この知らせを仲間に早く知らせようと、
長篠城へと取って返した強右衛門は、
往復130キロの道を、一睡もせずに、一日半
で駆け抜けたのでした。
ところが、長篠城の近くまで来た強右衛門は、
武田軍に捕まってしまいます。
もらったのですが、強右衛門は「城では、
みなが私の首尾を待ちかねております。
御味方が明日にも出立することを知らせ
とうございます」といって、深々と頭を下げました。
家康は「もしこのまま返せば、武田方に
つかまったりもするだろうし、命も保障
しかねるかも知れぬ」と思いましたが、強右衛門
の決意を見ると、これ以上止めても無駄
であろうと思い直して、「では、くれぐれ
も気をつけるように」と諭して、強右衛門
を出立を見送ったのでした。
徳川、織田軍は、翌日には予定どうりに、
長篠城に向けて出立と決まりました。
この知らせを仲間に早く知らせようと、
長篠城へと取って返した強右衛門は、
往復130キロの道を、一睡もせずに、一日半
で駆け抜けたのでした。
ところが、長篠城の近くまで来た強右衛門は、
武田軍に捕まってしまいます。
2012年09月18日
鳥居 強右衛門 ④
14日の早朝、下水口からそっと抜け出した
強右衛門は、幾重にも取り囲む武田軍の隙
をみて、脱出に成功しました。敵の後方で
彼があげた、脱出の成功を知らせるのろし
を見た長篠城の兵は喜びの声を上げ、強右衛門
の無事な帰還を祈りました。
全速力で、岡崎城へ向かって駆け出した
強右衛門は、その日のうちに岡崎城にたどり
着きました。
その頃、岡崎城には、織田信長が30000の
兵を連れて到着していました。徳川軍と合わ
せると38000の大軍です。
岡崎城に入った強右衛門の報告を聞いた家康
は強右衛門に声をかけて言いました。
「強右衛門。よく知らせてくれた。
ご苦労であった。明日、われらは長篠
に向けて出立する。安心して、しばらく
休むが良い」と強右衛門をねぎらいました。
つづく
強右衛門は、幾重にも取り囲む武田軍の隙
をみて、脱出に成功しました。敵の後方で
彼があげた、脱出の成功を知らせるのろし
を見た長篠城の兵は喜びの声を上げ、強右衛門
の無事な帰還を祈りました。
全速力で、岡崎城へ向かって駆け出した
強右衛門は、その日のうちに岡崎城にたどり
着きました。
その頃、岡崎城には、織田信長が30000の
兵を連れて到着していました。徳川軍と合わ
せると38000の大軍です。
岡崎城に入った強右衛門の報告を聞いた家康
は強右衛門に声をかけて言いました。
「強右衛門。よく知らせてくれた。
ご苦労であった。明日、われらは長篠
に向けて出立する。安心して、しばらく
休むが良い」と強右衛門をねぎらいました。
つづく
2012年09月17日
鳥居 強右衛門 ③
武田軍に幾重にも囲まれ、食料を焼かれて
しまった長篠城の兵の士気はだんだん
落ちて行きました。
そこで、徳川家康が守る岡崎城に、窮状
を伝えて、援軍を頼むために、伝令を送る
ことになりました。岡崎城は長篠城から
65キロほどありました。伝令の志願を募ると、
足軽の一人、鳥居強右衛門が名乗り出ます。
強右衛門は、体も大きく、日ごろは無口ながら、
仲間にも信頼されている男でした。また、
彼は、泳ぎが達者だと言うことでも知られ
ていました。長篠から出るには、敵に悟ら
れないように川を横切る必要があったのです。
信昌もその人柄と力を頼んで、この危急を
岡崎に知らせる役目を彼に託したのでした。
この城の全員の命が彼の働きにかかっていました。
使命の重さを感じたのか、彼の顔には深い
覚悟があらわれていました。
しまった長篠城の兵の士気はだんだん
落ちて行きました。
そこで、徳川家康が守る岡崎城に、窮状
を伝えて、援軍を頼むために、伝令を送る
ことになりました。岡崎城は長篠城から
65キロほどありました。伝令の志願を募ると、
足軽の一人、鳥居強右衛門が名乗り出ます。
強右衛門は、体も大きく、日ごろは無口ながら、
仲間にも信頼されている男でした。また、
彼は、泳ぎが達者だと言うことでも知られ
ていました。長篠から出るには、敵に悟ら
れないように川を横切る必要があったのです。
信昌もその人柄と力を頼んで、この危急を
岡崎に知らせる役目を彼に託したのでした。
この城の全員の命が彼の働きにかかっていました。
使命の重さを感じたのか、彼の顔には深い
覚悟があらわれていました。
2012年09月16日
鳥居 強右衛門 ②
中津は、細川氏、黒田氏、日本史にでるような
歴代、有数な領主をいただく、この地方の要衝
の地でした。
奥平氏は、明治維新の頃まで、中津藩の城主と
して残りました。
奥平氏は、戦国時代には、現在愛知県、東三河の
小豪族で、徳川側についた、長篠城の城主でした。
1575年、武田勝頼が、15,000の軍勢を率いて、
長篠城に攻めてきました。
500人の城兵で城を守る奥平信昌は武田軍の
猛攻に城を死守し、籠城を覚悟していました。
2重3重に城を取り囲む武田軍は猛攻を繰り返し、
その矢の一本が食料庫に当たり、
籠城のために備えていた食料がすべて焼け
落ちてしまったのです。
食料もない城での籠城は長くは持ちません。
歴代、有数な領主をいただく、この地方の要衝
の地でした。
奥平氏は、明治維新の頃まで、中津藩の城主と
して残りました。
奥平氏は、戦国時代には、現在愛知県、東三河の
小豪族で、徳川側についた、長篠城の城主でした。
1575年、武田勝頼が、15,000の軍勢を率いて、
長篠城に攻めてきました。
500人の城兵で城を守る奥平信昌は武田軍の
猛攻に城を死守し、籠城を覚悟していました。
2重3重に城を取り囲む武田軍は猛攻を繰り返し、
その矢の一本が食料庫に当たり、
籠城のために備えていた食料がすべて焼け
落ちてしまったのです。
食料もない城での籠城は長くは持ちません。
2012年09月15日
鳥居 強右衛門(すねえもん) ①
福岡県と大分県の間を流れる山国川が、
豊前海に注ぐ河口に近いところに立つ、
中津城に、奥平家の神社があります。
その、神社の内殿の正面に、以前のこと
ですが、十字架にかけられた裸の男の絵が
ありました。
粗末な紙に描かれたその男の姿は、ふんどし
一枚で、髪はザンバラ。
どうして、こんな姿の男の絵を、神社の正面に
かけているのかと不思議に思ったものでした。
そして、奥平家の歴史を知るにつけて、
この人物を、神として大切に伝えた奥平家の
人々の思いを知ったのでした。
彼は、奥平家の家臣、鳥居強右衛門といい、
奥平の人々にとって、神にもまさる
恩人として、長く語り伝えられるべき人物
でした。
強右衛門の話をするとき、その自己犠牲の
男の心情を思うと、いつも胸に迫るもの
があります。
中津に生まれた人物ではありませんが、
縁あって、中津城の城主となった奥平家
に伝わる鳥居強右衛門の話を是非聞いてください。
つづく
豊前海に注ぐ河口に近いところに立つ、
中津城に、奥平家の神社があります。
その、神社の内殿の正面に、以前のこと
ですが、十字架にかけられた裸の男の絵が
ありました。
粗末な紙に描かれたその男の姿は、ふんどし
一枚で、髪はザンバラ。
どうして、こんな姿の男の絵を、神社の正面に
かけているのかと不思議に思ったものでした。
そして、奥平家の歴史を知るにつけて、
この人物を、神として大切に伝えた奥平家の
人々の思いを知ったのでした。
彼は、奥平家の家臣、鳥居強右衛門といい、
奥平の人々にとって、神にもまさる
恩人として、長く語り伝えられるべき人物
でした。
強右衛門の話をするとき、その自己犠牲の
男の心情を思うと、いつも胸に迫るもの
があります。
中津に生まれた人物ではありませんが、
縁あって、中津城の城主となった奥平家
に伝わる鳥居強右衛門の話を是非聞いてください。
つづく