プロフィール
剛先生
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 7人
QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
インフォメーション
大分県の地域ブログ情報サイト「じゃんぐる公園」

ID
PASS

大分ケーブルサービス

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告は非表示になります。
  
Posted by スポンサー広告 at

2012年09月24日

鳥居 強右衛門 ⑩ 最終回

長篠の戦いの勝利で、織田軍、徳川軍は

大きく天下取の駒を進めたと言ってもよいでしょう。

また、この戦いで、奥平信昌は、徳川家康の娘を嫁とし、

信長から信の一字を与えられたのでした。

そして、この勝因を作った強右衛門を、奥平氏は

長く記憶にとどめるために、奥平神社にその姿を

掲げてきたのでした。私が昔見たのは、鳥居強右衛門

の最後の姿だったのです。


彼の絵姿は、今、中津城の天守閣の中に飾られています。
       
          完  

Posted by 剛先生 at 23:43Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月24日

鳥居 強右衛門 ⑨

強右衛門が武田軍に殺される姿を城から見ていた、

長篠城の兵たちは、彼の姿と最後の言葉に、

勇気付けられて、信長、家康の軍が

到着するまで、城は持ちこたえたのでした。

そして、援軍は、約束どおりにやってきました。

特に、織田軍は3000挺の火縄銃を持って到着しました。

織田信長は鉄砲を3段にして、弾積めの時間を短縮し、

しかも、鉄砲の前に柵をして、騎馬の突進を阻みました。

これによって、当時、最強と言われた、武田軍団は

圧倒的な織田軍の鉄砲隊の前に壊滅的な敗戦を帰した

のでした。     つづく
  

Posted by 剛先生 at 01:05Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月23日

鳥居 強右衛門 ⑧

磔の柱に縛り付けられた強右衛門は

しばらくすると、やおら目を見開いて、

城の方を見ました。

遠目に仲間の顔が見えます。

彼はその一人一人の顔を確かめると、

目の前の城に向かって大声で叫びました。

「みなの衆――。援軍はすぐにやって

きますぞ。今しばらく持ちこたえてくだされ」と。

その言葉が終るか終らないうちに、彼の体は

下から突き出した武田兵の槍の先で刺されて

いました。

捕らえられた時から、強右衛門は死を覚悟して

いたのでした。

武田軍の命令に従うと見せて、これを、味方

をはげます最後のチャンスとして、この朗報を

命をかけて伝えたのです。

    つづく
  

Posted by 剛先生 at 00:13Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月21日

鳥居 強右衛門 ⑦


武田軍は、川をはさんだ対岸の、城からよく見える

場所にやぐらを建てて、そこに柱に磔(はりつけ)

にされた強右衛門を立てました。

城の中からも、裸で磔にされた強右衛門の姿が

よく見えました。長い籠城で、やせて、気力も

失せた城兵たちは、食い入るように、強右衛門の

姿を見守っていました。彼が捕まってしまったの

を見て、城兵の中に、絶望的な気持ちが広がって

いました。

両軍が固唾を呑んで見守る中、柱の上で、

強右衛門は、固く目を閉じていました。

それを、下から、武田の兵が槍の先で、

早く言えと催促するように、つつきました。

   つづく
  

Posted by 剛先生 at 13:46Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月20日

鳥居 強右衛門 ⑥

岡崎城から、援軍が来るとの知らせを、一刻も

早く知らせようと、長篠城に向かった強右衛門

でしたが、後一歩のところで、武田軍に捕まって

しまいます。

武田軍は、強右衛門から、徳川、織田軍がすぐ

にもやって来ると聞き出します。

そして、彼に、もし「援軍は来ない、降伏しろ」

と城内の兵士に伝えれば、武田の家臣として、

厚遇しようと持ちかけます。援軍が来ないと

なれば、城はすぐにも落ちるであろうと、

武田軍は考えたのでした。強右衛門の脳裏に

一瞬、貧しい家族の姿が目に浮かびました。

長い戦乱の中、満足に食べさせることも

できないまま、今、自分は殺されるかも

しれないという想いが頭をよぎりました。

彼は深い目をして、武田軍の指図どおりに

言うと承知しました。

    つづく  

Posted by 剛先生 at 21:20Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月20日

鳥居 強右衛門 ⑤

家康に休むようにとねぎらいの言葉かけて

もらったのですが、強右衛門は「城では、

みなが私の首尾を待ちかねております。

御味方が明日にも出立することを知らせ

とうございます」といって、深々と頭を下げました。

家康は「もしこのまま返せば、武田方に

つかまったりもするだろうし、命も保障

しかねるかも知れぬ」と思いましたが、強右衛門

の決意を見ると、これ以上止めても無駄

であろうと思い直して、「では、くれぐれ

も気をつけるように」と諭して、強右衛門

を出立を見送ったのでした。

徳川、織田軍は、翌日には予定どうりに、

長篠城に向けて出立と決まりました。

この知らせを仲間に早く知らせようと、

長篠城へと取って返した強右衛門は、

往復130キロの道を、一睡もせずに、一日半

で駆け抜けたのでした。

ところが、長篠城の近くまで来た強右衛門は、

武田軍に捕まってしまいます。



  

Posted by 剛先生 at 00:08Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月18日

鳥居 強右衛門 ④

14日の早朝、下水口からそっと抜け出した

強右衛門は、幾重にも取り囲む武田軍の隙

をみて、脱出に成功しました。敵の後方で

彼があげた、脱出の成功を知らせるのろし

を見た長篠城の兵は喜びの声を上げ、強右衛門

の無事な帰還を祈りました。

全速力で、岡崎城へ向かって駆け出した

強右衛門は、その日のうちに岡崎城にたどり

着きました。

その頃、岡崎城には、織田信長が30000の

兵を連れて到着していました。徳川軍と合わ

せると38000の大軍です。

岡崎城に入った強右衛門の報告を聞いた家康

は強右衛門に声をかけて言いました。

「強右衛門。よく知らせてくれた。

ご苦労であった。明日、われらは長篠

に向けて出立する。安心して、しばらく

休むが良い」と強右衛門をねぎらいました。

  つづく  

Posted by 剛先生 at 23:02Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月17日

鳥居 強右衛門 ③

武田軍に幾重にも囲まれ、食料を焼かれて

しまった長篠城の兵の士気はだんだん

落ちて行きました。

そこで、徳川家康が守る岡崎城に、窮状

を伝えて、援軍を頼むために、伝令を送る

ことになりました。岡崎城は長篠城から

65キロほどありました。伝令の志願を募ると、

足軽の一人、鳥居強右衛門が名乗り出ます。

強右衛門は、体も大きく、日ごろは無口ながら、

仲間にも信頼されている男でした。また、

彼は、泳ぎが達者だと言うことでも知られ

ていました。長篠から出るには、敵に悟ら

れないように川を横切る必要があったのです。

信昌もその人柄と力を頼んで、この危急を

岡崎に知らせる役目を彼に託したのでした。

この城の全員の命が彼の働きにかかっていました。

使命の重さを感じたのか、彼の顔には深い

覚悟があらわれていました。
  

Posted by 剛先生 at 23:10Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月16日

鳥居 強右衛門 ②

中津は、細川氏、黒田氏、日本史にでるような

歴代、有数な領主をいただく、この地方の要衝

の地でした。

奥平氏は、明治維新の頃まで、中津藩の城主と

して残りました。

奥平氏は、戦国時代には、現在愛知県、東三河の

小豪族で、徳川側についた、長篠城の城主でした。

1575年、武田勝頼が、15,000の軍勢を率いて、

長篠城に攻めてきました。

500人の城兵で城を守る奥平信昌は武田軍の

猛攻に城を死守し、籠城を覚悟していました。

2重3重に城を取り囲む武田軍は猛攻を繰り返し、

その矢の一本が食料庫に当たり、

籠城のために備えていた食料がすべて焼け

落ちてしまったのです。

食料もない城での籠城は長くは持ちません。
  

Posted by 剛先生 at 23:39Comments(0)勇気をもらう話

2012年09月15日

鳥居 強右衛門(すねえもん) ①

福岡県と大分県の間を流れる山国川が、

豊前海に注ぐ河口に近いところに立つ、

中津城に、奥平家の神社があります。

その、神社の内殿の正面に、以前のこと

ですが、十字架にかけられた裸の男の絵が

ありました。

粗末な紙に描かれたその男の姿は、ふんどし

一枚で、髪はザンバラ。

どうして、こんな姿の男の絵を、神社の正面に

かけているのかと不思議に思ったものでした。

そして、奥平家の歴史を知るにつけて、

この人物を、神として大切に伝えた奥平家の

人々の思いを知ったのでした。

彼は、奥平家の家臣、鳥居強右衛門といい、

奥平の人々にとって、神にもまさる

恩人として、長く語り伝えられるべき人物

でした。

強右衛門の話をするとき、その自己犠牲の

男の心情を思うと、いつも胸に迫るもの

があります。

中津に生まれた人物ではありませんが、

縁あって、中津城の城主となった奥平家

に伝わる鳥居強右衛門の話を是非聞いてください。
  つづく  

Posted by 剛先生 at 23:56Comments(0)勇気をもらう話