2012年12月18日
今、どうなってるの? 7
今度の選挙で自民党が大勝して、
びっくりしました。1年くらい前までは、
自民党はなくなり、また民主党もなくなり、
政界再編が起こり、新しいグループが
日本をリードしていくのかなと思っていました。
なぜなら、民主党が人気をなくしても、
自民党が人気を回復していった様子もなかったし、
これは、あきらかに新しい時代が来て、
政治がダイナミックに変わっていくのかな
と思っていました。でも、また、
55年体制の復活になりました。
おそらく相当に多くの国民が、新しい時代に、
新しい体制をという気持ちがあったと思いますが、
一体そのエネルギーはどこにいったのでしょう。
びっくりしました。1年くらい前までは、
自民党はなくなり、また民主党もなくなり、
政界再編が起こり、新しいグループが
日本をリードしていくのかなと思っていました。
なぜなら、民主党が人気をなくしても、
自民党が人気を回復していった様子もなかったし、
これは、あきらかに新しい時代が来て、
政治がダイナミックに変わっていくのかな
と思っていました。でも、また、
55年体制の復活になりました。
おそらく相当に多くの国民が、新しい時代に、
新しい体制をという気持ちがあったと思いますが、
一体そのエネルギーはどこにいったのでしょう。
2012年12月03日
黒田 官兵衛 11
人間が真剣に、自分の人生に取り組んでいるとき、
間違いなく、運もまた後押しするのでしょう。
官兵衛が高松城を水攻めしたときも、
天もまた彼の陣営に味方したのでした。
ちょうどいい具合に、その年の梅雨は
かなりの雨をもたらしたのです。
たちまちのうちに、満々と水をたたえる
人工の湖が出現したのでした。
このありさまを見て、
救援にきた毛利軍も、為すすべもなく、
休戦交渉を受け入れざるをえない状況でした。
しかし、初めは・・・秀吉軍の態度は厳しく、
毛利の提案に譲歩しません。
というのも、秀吉は、ようやく毛利の本軍、
4万5000をおびき出し、
信長が大軍を率いて着陣するのを待ってたからです。
信長も・・・ちょうど武田軍を殲滅したときのように、
全軍を率いて「今こそ、乾坤一擲」という思いで
出陣を決意していたのです。
まず、明智光秀が第一軍に、
それから、織田全軍が陸続と続き、
ここ備中の山野を埋め尽くすことになっていたのです。
官兵衛も、秀吉も――
長い労苦がようやくにして報いられ、
この一戦の後は・・・本丸まで馬上で疾駆するがごとく、
中国の支配が進捗して行くものだと、
安堵の胸をおろしていたのかもしれません。
――しかし、それが突然にして・・・
間違いなく、運もまた後押しするのでしょう。
官兵衛が高松城を水攻めしたときも、
天もまた彼の陣営に味方したのでした。
ちょうどいい具合に、その年の梅雨は
かなりの雨をもたらしたのです。
たちまちのうちに、満々と水をたたえる
人工の湖が出現したのでした。
このありさまを見て、
救援にきた毛利軍も、為すすべもなく、
休戦交渉を受け入れざるをえない状況でした。
しかし、初めは・・・秀吉軍の態度は厳しく、
毛利の提案に譲歩しません。
というのも、秀吉は、ようやく毛利の本軍、
4万5000をおびき出し、
信長が大軍を率いて着陣するのを待ってたからです。
信長も・・・ちょうど武田軍を殲滅したときのように、
全軍を率いて「今こそ、乾坤一擲」という思いで
出陣を決意していたのです。
まず、明智光秀が第一軍に、
それから、織田全軍が陸続と続き、
ここ備中の山野を埋め尽くすことになっていたのです。
官兵衛も、秀吉も――
長い労苦がようやくにして報いられ、
この一戦の後は・・・本丸まで馬上で疾駆するがごとく、
中国の支配が進捗して行くものだと、
安堵の胸をおろしていたのかもしれません。
――しかし、それが突然にして・・・
2012年11月22日
黒田 官兵衛 10
昨年、黒田官兵衛が攻めたという
高松城の跡地に行ってみました。
今は、城跡をうかがわせるようなものは
何も残っていませんでしたが・・・
なるほど、その位置は、
湖水の底になるであろう低地にありました。
周囲は高く、城のあたりは低く、
今でも蓮畑で囲まれていました。
おそらく官兵衛は、いったんは力攻めしてみたのでしょうが、
あまりの足場の悪さゆえに、進退ままならず、
これでは力攻は無理だと判断して、
“水攻め”を秀吉に進言したといわれています。
城の周囲には小高い丘があり、
土手は城の背後、約3キロをつくったというのです。
しかも、それをわずか12日間でつくったというのですから、
まさに脅威です。その土手は、高さ7メーター、
幅24メーターほどであったといわれています。
この土木工事が難工事であったのは間違いありません。
官兵衛はよほど土木工事にもたけていたのでしょう。
水の勢いは、今回の津波を見てもわかります。
最後に水をせき止めるのは、最大の難問だったはずです。
官兵衛は船に石を積み、その船に穴を開け、
沈めたというのです。
しかし、どのようにして定位置に沈めたのでしょうか。
これが難工事だったのは・・・
後に石田三成が同じ方法を、小田原攻めで採用して、
見事に失敗していることでもわかります。
ようするに、せっかくつくった土手が
決壊して、自陣が大きく損害を受けたのです。
高松城の跡地に行ってみました。
今は、城跡をうかがわせるようなものは
何も残っていませんでしたが・・・
なるほど、その位置は、
湖水の底になるであろう低地にありました。
周囲は高く、城のあたりは低く、
今でも蓮畑で囲まれていました。
おそらく官兵衛は、いったんは力攻めしてみたのでしょうが、
あまりの足場の悪さゆえに、進退ままならず、
これでは力攻は無理だと判断して、
“水攻め”を秀吉に進言したといわれています。
城の周囲には小高い丘があり、
土手は城の背後、約3キロをつくったというのです。
しかも、それをわずか12日間でつくったというのですから、
まさに脅威です。その土手は、高さ7メーター、
幅24メーターほどであったといわれています。
この土木工事が難工事であったのは間違いありません。
官兵衛はよほど土木工事にもたけていたのでしょう。
水の勢いは、今回の津波を見てもわかります。
最後に水をせき止めるのは、最大の難問だったはずです。
官兵衛は船に石を積み、その船に穴を開け、
沈めたというのです。
しかし、どのようにして定位置に沈めたのでしょうか。
これが難工事だったのは・・・
後に石田三成が同じ方法を、小田原攻めで採用して、
見事に失敗していることでもわかります。
ようするに、せっかくつくった土手が
決壊して、自陣が大きく損害を受けたのです。
2012年11月06日
黒田 官兵衛 4
黒田 官兵衛が有岡城に行ったとき、
はたして村重は官兵衛に会ったのだろうか。
それとも、会わないで、官兵衛を土牢に入れたのだろうか
・・・というのが、少し興味のある問題ですね。
村重の心は・・・どうしても、信長に反旗を
翻さなければならないといった緊迫な思いは、
薄かったのではないか・・・という気がします。
その証拠に、思いのほかの、信長の寛大な勧誘に、
いったんその誘いを受けて、城を出るのですが、
すぐその後に、思いなおして籠城を決め込むのです。
このときの村重の気持ちは・・・やはり信長の知遇は厚かったけど
・・・でも、今さら降伏しても、あの峻烈な信長が、
本気で自分を許そうとは思えない
といった気持ちだったのではないでしょうか。
・・・とすれば、村重は、旧情厚い官兵衛と会談すれば、
もろくも自分が崩れ去っていくのではないか
という心配があったにちがいありません。
だから、会わずに土牢に入れたのではないかという気がします。
ただ、本当はどうだったのか・・・
今度、文献を調べてみたいと思います。
とにかく・・・こういった場合、
村重が心底から信長に反乱するとすれば、
官兵衛を殺すことを選ぶはずです。
それを殺さないで、土牢にいれるのですから・・・
このあたりの村重の行動に優柔不断さを感じさせます。
信長は、官兵衛の報告を一日千秋の思いで待っています。
しかし、なかなか秀吉からの報告が届きません。
ついに、信長は本来の性癖を爆発させて、
「はかられたか」というと同時に、
「官兵衛の子供を殺せ」と命じたのです。
黒田官兵衛は、信長に随身するにあたり、
息子の松千代を、人質として秀吉に差し出していたのです。
こともあろうに、この子供を殺せと命じたのです。
今までじっと、本来の自分を殺して、
ひたすらに事体の好転を願ってきた信長としては、
その忍耐の糸がピンと切れた瞬間だったのです。
はたして村重は官兵衛に会ったのだろうか。
それとも、会わないで、官兵衛を土牢に入れたのだろうか
・・・というのが、少し興味のある問題ですね。
村重の心は・・・どうしても、信長に反旗を
翻さなければならないといった緊迫な思いは、
薄かったのではないか・・・という気がします。
その証拠に、思いのほかの、信長の寛大な勧誘に、
いったんその誘いを受けて、城を出るのですが、
すぐその後に、思いなおして籠城を決め込むのです。
このときの村重の気持ちは・・・やはり信長の知遇は厚かったけど
・・・でも、今さら降伏しても、あの峻烈な信長が、
本気で自分を許そうとは思えない
といった気持ちだったのではないでしょうか。
・・・とすれば、村重は、旧情厚い官兵衛と会談すれば、
もろくも自分が崩れ去っていくのではないか
という心配があったにちがいありません。
だから、会わずに土牢に入れたのではないかという気がします。
ただ、本当はどうだったのか・・・
今度、文献を調べてみたいと思います。
とにかく・・・こういった場合、
村重が心底から信長に反乱するとすれば、
官兵衛を殺すことを選ぶはずです。
それを殺さないで、土牢にいれるのですから・・・
このあたりの村重の行動に優柔不断さを感じさせます。
信長は、官兵衛の報告を一日千秋の思いで待っています。
しかし、なかなか秀吉からの報告が届きません。
ついに、信長は本来の性癖を爆発させて、
「はかられたか」というと同時に、
「官兵衛の子供を殺せ」と命じたのです。
黒田官兵衛は、信長に随身するにあたり、
息子の松千代を、人質として秀吉に差し出していたのです。
こともあろうに、この子供を殺せと命じたのです。
今までじっと、本来の自分を殺して、
ひたすらに事体の好転を願ってきた信長としては、
その忍耐の糸がピンと切れた瞬間だったのです。
2012年11月06日
黒田 官兵衛 3
信長が、荒木村重の造反を、
にわかに信じ切れなかったのは・・・
これほどの厚遇を持って遇し、
村重に何の不満があろうか・・・
ということだったのでしょう。
信長は、村重に摂津の国を与え、
こよなく村重の剛勇を愛したのでした。
村重が始めて信長に、謁見したとき、
信長は脇差を抜いて、目の前に置いていた、
だんごを刺して「これを食べてみよ」
といったと言うのです。
居流れる諸将は、さてどうしたものかと、
固唾を呑んだのです。
ところが、村重は、「いただきまする」
と言って、切っ先に刺さった、
だんごにぱっくりと噛み付いて、
食べてしまったのです。
これを見た信長は、カラカラと笑って、
以後、この村重を重用するようになるのです。
信長には、もともと、
このような稚気にとんだ奇癖を愛する風があり、
村重はまさにこの信長の性向にぴったりと
反応する人物だったのです。
それだからこそ・・・
後世になった今も、村重謀反の真意を明察することはできません。
明智光秀にはどこか、
あまりに慇懃実直という趣があり、
この点は信長とは相容れないところがあったのでしょう。
この2人にいつか、不協音が生じるということは、
容易に推測できます。
しかし、村重とは、少なくとも信長の側には、
何の齟齬もありえなかったのです。
だからこそ・・・普段、峻烈きわまりない信長も、
このときばかりは、「いかにしたものか」
と思案にくれたのです。
この状況では力攻めは“効なし”として、
説得するということに決定します。
ということで、黒田官兵衛が有岡城に向かいます。
にわかに信じ切れなかったのは・・・
これほどの厚遇を持って遇し、
村重に何の不満があろうか・・・
ということだったのでしょう。
信長は、村重に摂津の国を与え、
こよなく村重の剛勇を愛したのでした。
村重が始めて信長に、謁見したとき、
信長は脇差を抜いて、目の前に置いていた、
だんごを刺して「これを食べてみよ」
といったと言うのです。
居流れる諸将は、さてどうしたものかと、
固唾を呑んだのです。
ところが、村重は、「いただきまする」
と言って、切っ先に刺さった、
だんごにぱっくりと噛み付いて、
食べてしまったのです。
これを見た信長は、カラカラと笑って、
以後、この村重を重用するようになるのです。
信長には、もともと、
このような稚気にとんだ奇癖を愛する風があり、
村重はまさにこの信長の性向にぴったりと
反応する人物だったのです。
それだからこそ・・・
後世になった今も、村重謀反の真意を明察することはできません。
明智光秀にはどこか、
あまりに慇懃実直という趣があり、
この点は信長とは相容れないところがあったのでしょう。
この2人にいつか、不協音が生じるということは、
容易に推測できます。
しかし、村重とは、少なくとも信長の側には、
何の齟齬もありえなかったのです。
だからこそ・・・普段、峻烈きわまりない信長も、
このときばかりは、「いかにしたものか」
と思案にくれたのです。
この状況では力攻めは“効なし”として、
説得するということに決定します。
ということで、黒田官兵衛が有岡城に向かいます。
2012年11月04日
黒田 官兵衛 2
黒田 官兵衛はもともとは、小寺氏に属し、
姫路を拠点にしていました。
当時、播州は、毛利、浮田、織田などの勢力の接点にあって、
自己の存続を図るには、
右顧左眄に忙しい日々だったのです。
その中で、官兵衛は、
次の時代が、間違いなく信長の時代であるという確信
をつかんだのだと思います。
彼は主君の小寺氏を説得して、
信長と接触しようとします。
その際、秀吉と親交を結ぶことになったのだと思います。
本格的に秀吉が播磨に進出するまでは、
敵、毛利などの攻撃を受け、
それをわずかの兵で持って打ち破っています。
まさに寡兵よく敵を制すといった戦いだったのです。
おそらく、周囲には「ここまでして、
織田に尽くす必要があるのか」と
いった意見も多かったのではないでしょうか。
しかし、そのような中で、彼は一度もこころ変わりの様相もなく、
ひたすら信長に忠誠を尽くすのです。
ようやくにして、秀吉が姫路に着陣し、
本格的に中国経営が途につたばかりのころ、
摂津の荒木村重が信長に反旗を翻すのです。
摂津と言えば、信長の領土の中心的な位置にあり、
もし、この乱が拡大すれば、
信長の領国は分裂し、
瞬間にして瓦解する危険があったのです。
しかも、信長は荒木村重をことのほか、
信頼していて、このもっとも重大な地域を与えていたのでした。
だから、「村重、反乱」という知らせを聞いたとき
「何かの間違いであろう」といったといわれています。
姫路を拠点にしていました。
当時、播州は、毛利、浮田、織田などの勢力の接点にあって、
自己の存続を図るには、
右顧左眄に忙しい日々だったのです。
その中で、官兵衛は、
次の時代が、間違いなく信長の時代であるという確信
をつかんだのだと思います。
彼は主君の小寺氏を説得して、
信長と接触しようとします。
その際、秀吉と親交を結ぶことになったのだと思います。
本格的に秀吉が播磨に進出するまでは、
敵、毛利などの攻撃を受け、
それをわずかの兵で持って打ち破っています。
まさに寡兵よく敵を制すといった戦いだったのです。
おそらく、周囲には「ここまでして、
織田に尽くす必要があるのか」と
いった意見も多かったのではないでしょうか。
しかし、そのような中で、彼は一度もこころ変わりの様相もなく、
ひたすら信長に忠誠を尽くすのです。
ようやくにして、秀吉が姫路に着陣し、
本格的に中国経営が途につたばかりのころ、
摂津の荒木村重が信長に反旗を翻すのです。
摂津と言えば、信長の領土の中心的な位置にあり、
もし、この乱が拡大すれば、
信長の領国は分裂し、
瞬間にして瓦解する危険があったのです。
しかも、信長は荒木村重をことのほか、
信頼していて、このもっとも重大な地域を与えていたのでした。
だから、「村重、反乱」という知らせを聞いたとき
「何かの間違いであろう」といったといわれています。
2012年11月01日
黒田 官兵衛 1
黒田 官兵衛
2014年の大河ドラマが、
黒田 官兵衛に決定してよかってです。
これは、関係者の努力のたまものでしょう。
私も、官兵衛は戦国武将の中で、
もっともすきなタイプの武将です。
一般には、謀将だなどと言われていますが、
私にはそんな人物には思えません。
おそらく、
現在に生きていたら、
いつも、にこやかで、気さくな人物
だったのではないかと思います。
たしかに、彼に会った人たちが、
彼の人物に陶酔して、
次々と調略されて行くさまを見ると、
いかにも策略にとんだ人物に見えますが、
はたしてそうでしょうか。
彼によって翻意させられた人たちの中には、
一流の人物が多く、
人の口車に軽く乗るタイプの人物ばかりではありません。
多くの人物が、彼の言葉を本気で信頼したのは、
官兵衛その人が、
人の信頼を勝ち取ることの出来る人柄を
持っていたのだと思います。
それと、これがもっとも大きかったことだと思いますが、
時代を見る目があったに違いありません。
彼の見る目は、
その時代の趨勢を大きく言い当てていたのでしょう。
時代の流れに対して、
明晰な見通しを持っていたのでしょう。
だからこそ、多くの人物が、
彼の言葉に促がされたにちがいありません。
2014年の大河ドラマが、
黒田 官兵衛に決定してよかってです。
これは、関係者の努力のたまものでしょう。
私も、官兵衛は戦国武将の中で、
もっともすきなタイプの武将です。
一般には、謀将だなどと言われていますが、
私にはそんな人物には思えません。
おそらく、
現在に生きていたら、
いつも、にこやかで、気さくな人物
だったのではないかと思います。
たしかに、彼に会った人たちが、
彼の人物に陶酔して、
次々と調略されて行くさまを見ると、
いかにも策略にとんだ人物に見えますが、
はたしてそうでしょうか。
彼によって翻意させられた人たちの中には、
一流の人物が多く、
人の口車に軽く乗るタイプの人物ばかりではありません。
多くの人物が、彼の言葉を本気で信頼したのは、
官兵衛その人が、
人の信頼を勝ち取ることの出来る人柄を
持っていたのだと思います。
それと、これがもっとも大きかったことだと思いますが、
時代を見る目があったに違いありません。
彼の見る目は、
その時代の趨勢を大きく言い当てていたのでしょう。
時代の流れに対して、
明晰な見通しを持っていたのでしょう。
だからこそ、多くの人物が、
彼の言葉に促がされたにちがいありません。